2012年07月21日

食べたいもの・・・

 帰ってきた息子に
 「何か食べたいものは・・・?」
 と尋ねたら

 「マルツの氷手(グー)
 と即答しました。

 やっぱり網干の子です。

 先ほど速攻で家族3人で行って来ました。
NEC_0608.JPG


posted by ひげおやじ at 15:17| Comment(0) | TrackBack(0) | My Episode  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月31日

EPlSODE-15? 変電所の見える風景

 先日、息子達のサッカーの応援で高丘中に行ったんですが、そこは自分の中では行ったことがない場所、何処にあるか知らない中学校でした。
 いや、正確には、知らないはず、行ったことがないと思い込んでいた中学校でした。

 それが証拠に、自転車で向かうという息子を見送ったあとで、念入りにネット地図で場所を確認し、それでも現在ナビが故障中の車でやっぱり少し迷いながらたどり着いたという感じでしたから。


 ところが…です。

 息子達の試合が始まり、応援に来られていたどの父兄よりも前に立ち、夕ッチラインに届こうかという所で観戦をしていた私は、1試合目の後半に入り、ある光景を写真におさめた瞬間に「はっがく〜(落胆した顔)」としました。

 それがまさにこの写真(といっても、上の部分をカットしてしまったのですがふらふら、鉄塔の下の部分から想像してもわかるでしょ。)
080127-5西尾得点22A.jpg
 変電所のある見える風景です。目
 サッカーボールを追いかけている中学生を見下ろすかのように、学校の東の空を変竜所の鉄塔や高圧線等が占領ている風景。

 「あれっ! はあ〜〜!?」


 一瞬にして私は30年ほど前、たぶんですが15歳の頃にタイムスリップしてしまいました。

 中学時代、サッカー部はなかったのですが、私を含めたサッカー好きの数名が2年生の頃から休み時聞を惜しんで校庭に飛び出し、サッカーボールすらなかったので先生に叱られながらもパレーポールを蹴っては遊んでおりました。

 結局、卒業するまでサッカー部は作ってもらえなかったんですが(噂ではその次の年にサッカー部ができたとか…、案外我々がきっかけを作ったのではと思ったりしています。)、卒業後も気の合う奴等と同好会的なチームを作り、ユニホームも揃えて試合を組んだりしてました。

 アルゼンチンのケンペスが全盛の頃、当然ユニホームはアルゼンチンモデル。
 私は玄人ウケする中盤のアルギレスが好きだったので背番号は「5」。

 で、この高丘中の校庭でも試合をしていたのです。

 息子達のように自転車でやって来てね。

 高丘中のOBのつてか何かでセットされたんでしょうね。

 現役の高丘中サッカー部の生徒と試合をして辛勝した記憶が蘇ってきました。

 変電所の見える風景

 その時、強烈に印象に残ったその風景


 あれから30年経って、今、その風景をバックに息子達の世代がサッカーをしている。

 何とも奇妙な感覚、不思議な縁、時の流れの何夕ルチアふらふら (ごめんなさいまとまりません。)
 
 

 
 変電所の見える風景が、忘れていた記憶、若かった頃の自分にほんの少し戻らせてくれたことで、心が少しポカポカした冬の一日となりました。ムード
 




posted by ひげおやじ at 22:38| Comment(2) | TrackBack(0) | My Episode  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月16日

Episode35−36

 先日、我が家の10年点険があったことで、この地に住んで今年で10年ということに気が付きました。
 逆に言えば点検がなければ気付かず流されていたかも…、
 ミサワさんありがとう。

と同時に、自分のブログに「My Episodeシリーズ」という力テゴリクリアがあったのを思い出しました。
※「My Episodeシリーズ」の説明はこちらクリア
 このシリーズを書き始めた頃は、各年齢が繋がれば、『ひげおやじ’の半生』とかいう本にして印税生活でも送れるかなというむかっ(怒り)、バカな考えも少しはあったかも知れませんが、なかなか昔のことか思い出せずに放っておいたのが実状。ふらふら

今回、ここ10年という区切りに気付いたことで、何とか最近のことなら思い出せそうな気もしてきたので、振り返りを超々お久しぶりのこの「My Episodeシリーズ」でこれから少しずつなぞっておきたいと思っていますので、アップした際にはどうか一つ、老い行く者の未練話と思ってよろしくお付き合い下さい。



さてさて

 10年前の1997年7月

 ひけおやじ’ 35歳
 力ミさん   ★5歳
 息子      4歳
     
 もともとはこの校区出身でしたが、高校以降は市内の別の所に住んでいたわけで、言わば20年ぷりのUターン。

 力ミさんも同郷ということで、いろいろ考えるところあって、この地に、この夕イミングで戻ることにした一番の理由は、やっぱり息子のこと。

 自分が子供の頃に家庭の都合で小・中学校の間に転校を3回、越境通学を1回経験しており、その都度、友達と別かれる寂しさや、新しい学校でなじめるかどうか不安な思いをしたことを覚えており、それはそれで結果的には友達もあちこちにできたし、人見知りもなく、誰とでもこちらから話しかけられるようになったとも思えるのですが、やはりできれぱ、息子にはそんな思いはさせなくなかったので、幼稚園に年小さんで入園するタイミングで何とか落ち着く場所を持ちたかったというのがありましたね。

 中学時代の友達も何人かはいましたが、それでも20年のブランクは他所からやって来た新入りと変わりなく、最初のこの一年の特に前半は地域との関わりなど全くない、職場と家の往復だけの単なる働きバチ的な父親たったと思います。もうやだ〜(悲しい顔)

 でも、園の行事とかは可能な限りのぞきに行ったり、地域の粗大ゴミの当番とかも小まめに顔を出したりはしてましたね。

 あ、そうそう

(クリックで大きくしてね。) 
97.jpg 息子は入園直前に入院したり、入園直後に体調壊して休んだりと散々なスタート。
 6月には完成入居の予定が、エ亊がずれ込み7月の入居となり、なんかザワザワと落ち着かない前半でもありました。

 たしかに新しい家は快適で、でも今のようにクネクネ飲みに行くこともなく、秋祭りといっても遠くから眺めているだけで、趣味のアウトドアに益々のめり込み、土曜の早朝は一人でフライフィッシングに出かけ、オートキャンプの道具を買い揃えてはご満悦、そして冬はスキーといった感じで、良く言えば家庭中心、悪く言えばあまり回りが見えていないおやじではあったと思います。
 
 そんな中、先日も広報紙「しおさい」の文書でご紹介したように、幼稚園のバザ一があって力ミさんが母の会の役員に当たっていたことから後片付けを手伝いに行き、その時の鍋類の洗いっぷりが良かったというだけの理由で、次の年の春から幼稚園の「父の会」というところに誘っていただいて、初めて地域の活動というものに身を置くこととなったのでした。

 
                 Episode36-37につづく


posted by ひげおやじ at 20:13| Comment(0) | TrackBack(0) | My Episode  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月09日

Episode13−14

 先日、息子のジーパンの記事クリアに、昔を思い出させてくれるようなコメントをY.O.さんから戴いたのをきっかけに、超久々のEPlSODEシリーズを書くことを思いつきました。

※カテゴリ「My Episode」についてのご説明 → クリア
※これまでの「My Episode」 → クリア

 Episode13−14ひらめき
 中学1年〜2年
 年代は昭和50年・1975年
 

 中学校生活3年間の中で、この頃が一番楽しかったし、いろんなことをよく覚えていると言えるでしょう。
 (別に他の2年間が楽しくなかった訳でもありませんが)

 勉強の方は、そこそこ、人並み、適当に、まあある程度、もうちょっと頑張ったら?、みたいな感じで、あまり息子に偉そうに言えた方ではなかったですが、自分としてはどの授業もどの先生も嫌いじゃなかったのは覚えています。
「好き」と「できる」は違うのです。
 
 特に2年2組の担任のN村先生は最高でした。ぴかぴか(新しい)

 教科は数学だったんですが、一緒に音楽を聞いたり、女子も含めてみんなで自転車に乗って姫路港まで釣りに行ったり、3学期の最後には広峰山に登ったり……、先生とずっと一緒にいたような気がします。
(数学の授業の記憶があまりないのですががく〜(落胆した顔) )

 幼稚な悪戯も一杯しました。ふらふら

 友達と1時間も早く登校して、教室の前の入口に仕掛けを作ったりもしました。
 何度も、失敗を重ね、改良を加えながら何度も。

 先生がガラッと扉を開けると、扉に挟んでた黒板消しが頭上に落ちる、という古典的な悪戯を実はダミーとしてご用意し、これにはひっかかるはずもなく気付いて得意顔で「犯人は誰や!」と物色する先生の横っ面に、実は扉を開けたことがスイッチとなって、習い立てかどうかは忘れましたが、てこや滑車の原理を駆使して反対側の壁からロープで吊るされた濡れぞうきんが時間差で夕一ザンのように襲いかかる。手(チョキ)

とか

 大卒新任の英語の先生を困らせてやろうと、クラスのみんなに頼み込み、全員に国語の教科書を出してもらうという悪戯の時は、先生を泣かせてしまい、N村先生に職員室でこっぴどく叱られたことを覚えています。もうやだ〜(悲しい顔)

 約10年後、就職して神戸の街で偶然にもその英語の先生(元)にお逢いした時は、お互いその悪戯のことをいの一番に思い出し、こちら赤面、彼女は大笑いするやらで、若気の至りとはいえ、何とも気恥ずかしいな思い出となっています。


 音楽会も、ギターの弾ける男子2人がいて、他クラスよりも盛り上がった演奏ができました。るんるん

 あと休み時間はず〜っとサッカーをしてましたね。サッカー
 当時、サッカー部は無かったので、サッカーボールすら無くて、バレーボールを蹴って遊んでました。
 たしか卒業する次の年度からサッカー部ができたのですが、それは多分に自分達のお陰だと勝手に信じています。


 卒業してからも、N村先生は結婚されて実家の但馬(県北)に帰えられたのですが、当時のクラスメートの野郎3人でギター抱えて泊り込みに行ったり、力ミさんを結婚前に紹介しに行ったり、結婚式にも御出席いただいたり、生まれたての息子を連れて家族3人泊めていただいたりと、最近でこそ年賀状のやりとりに留まっている感はありますが、お付き合いを続けていただき、こちらから言うのも何ですが、先生と生徒というよりは、人間同志のお付き合いをさせていただいていることに感謝しています。

 今から思えば2年2組のあの頃も、N村先生は、先生と生徒というよりは、「人」として対峙して下さってたのかも…。

 だからこそ、楽しかったことや悲しかったこと、いろんな出来事を鮮明に思い出せるのかも知れません。

まだまだ書き足りない思い出はいっぱいかすが、
ひげおやじにとって、「2年2組」は今でも特別なのです。ムード
posted by ひげおやじ at 19:27| Comment(27) | TrackBack(0) | My Episode  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月21日

Episode12−13

 中学に入った途端、
「お父さんの時はどんなんやったん?」
と執拗に聞いてくる息子に答えての、超久々の「Episodeシリーズ」。


「My Episode」について → クリッククリア


 お前と同じA中学校に入学。

 その頃は、O浜のN野町、春ばあさんの家に住んでた。

 その昔、A小学校には1年生の時に少し通っただけなので、知ってる友達はほとんどいなくて、今と達って1中学校区1小学校だったので友達同志ばかりの雰囲気の中、まあ言えば転校生状態で紛れ込んだという感じ


 クラスは1年1組。

 教室は今の1年1組と同じ場所。

 男子は全負マルガリータ(注:丸刈)


 その時は、グランドの南側、今テニスコー卜がある辺りに古い木造の校舎がたしか二棟あって、職員室や音楽室はその南校舎にあり、各クラスのある北校舎との間を結ぶ体育館・プール前を通る今と同じ通路(我々は馬場と呼んでいた?)には屋根があった。


1年1組の朝の楽しみは

「A中競馬」

 先生が 朝の職員会議を終えて、南校舎ゲートをスター卜し、北校舎にゴールするまでを競馬に見立てて大盛り上がり。
        0415_1740.png
       
 先生それぞれにはみんなで考えた馬の名前も付けていて
 イヌキグミ3代目(国語)
 オコルデヤスダ(英語)
 ハチマンタロヘイ(理科)
      などは今も忘れられない。

 これはホンマにおもしろかった。手(チョキ)わーい(嬉しい顔)



 で、部活は最初は野球部に入りたかったけど(サッカー部はまだ無かった。)、体が小さかったひげおやじからすれば上級生はまさに「巨大なおっさん」に見えて怖くて断念。

 帰宅部は嫌だったのでこれという理由もなく「技術エ作部」に入部したが、ある日、音楽の授業で先生に歌をほめられたのでホイホイと「合唱部」へ、これが今もPTAコーラスでハモハモを続けている原点なのだから、やっぱり「先生の一言」、特に「先生にほめられる」ということの影響カは凄くあると思う。
 

 生徒会か運営する購買部という売店が
校舎内にあったことの驚き。

 給食は無くて弁当かパンで、お前と同じように友達とおかずの交換もよくしてた。

 中間、期末、実力テスト。

 初めて経験する試験勉強。
 
 夜中にラジオを間きながら勉強した(つもり)。

 競技中心の体育祭

 合唱部がK先生の熱血指導のもと、市、県レベルのコンクールでもいい線いってたので、練習を一生懸命がんばったこと。るんるん

 ハレルヤ
 山のいぶき
 大地讃唱  などは何回歌ったんやろ。

 友達もたくさんできて、今思えば、お父さんがこうやって祭りや地域の行事、PTAなどで楽しくさせてもらえてるんは、中学校の頃のつながりがベースになってると思う。


 お前もいっぱい友達つくれよ!わーい(嬉しい顔) 
 


posted by ひげおやじ at 12:05| Comment(5) | TrackBack(0) | My Episode  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月29日

Episode 11−12

(「My Episodeカテゴリの説明」は、こちらをクリック。)
※今回は、息子への語りロ調となってます。



 お父さん(ひげおやじ)が丁度今のお前(息子)と同じ、小学6年の頃の話しをしよう。

 1973-74年、昭和48-49年
 テレビでは、アイドル全盛で天地真理やアグネス・チャン、それにフィンガー5がリンリンうるさかった、言うても解らんやろけどね。
 それと、NHKで「新八犬伝」いう人形劇が放送されとって、男同士の間では「いざとなったらタマ珠を出せ!」って言うのが流行っとったなあ。ガハハわーい(嬉しい顔)




 当時は飾磨区下野田のアパートに住んでて、母親(○ばあちやん)と弟(△のおっちゃん)と3人暮らし、高浜小学校に通ってた。

 5年生の春に転校してきたわりには、前の学校の時からドッヂボールが大好きで「横目の大将」とか言われとったんやけど、変わってきてからもその技を披露したら、その呼び名で呼んでくれたりで、直ぐに友達もいっぱいできて、勿論、好きな女の子も何人かできて……、
 そのうちの一人、Kさんには、今もPTAコーラスの発表会や、お前のサッカ一の試合で出くわしたりして、二言三言近況報告をしたりしてるけどな。揺れるハート
 これ、お母さんには一応内諸で…。失恋


 勉強はあまりしてた記憶はなくて、それでも何故か学級委員長とかには選ばれてて、まあ、今思えばその頃からやりたがりやったんかな、みんなもアイツにやらせとけば何となくおもしろそうやで…みたいなノリやったやろし、それで放課後の校庭や、今でも多分そうやと思うけど、迷路のような下野田界隈の路地を走り回り、
 ドロケイ(泥棒と警察に分かれての鬼ごっこ)、
 缶蹴り(これは解るよな)、
 それに「ジャン蹴り」言うて、「ジャミ」と呼ばれるお手玉のようなものを足で蹴って、その回数の多さや技を競う遊びが流行ってた。
 「ジャミ」は市販のものもあったと思うけど、みんな母親に作ってもらったり、家庭料の裁縫セット(あったのよ、そういうのが)を使って、器用な奴は自分で上手に使ったり。
 お前がインサイドのリフティングが得意なのは、きっと遺伝やと思う。(自慢)
 

 サッカークラブなんかは聞いたこともなかったけど、少年軟式野球のチームは校区にあって、今やから言えるけどホンマは入りたくて仕方なかった。
 もっと小さい時に父親(お前のおじいちゃん)にスゴイしごかれとったから、入れたらチームの奴らに負ける気はせんかった。でも母親には言えんかった。
 

 それから、今と違って児童会いうのがあって、どういう経緯か忘れたけど、6年後期の児童長いうのになって、さっき話したKさんが副児童長で助けてくれて、ちょっと幸せやったかな。ルンルンちゅうやっちゃね。
 毎回、朝令の司会も2人に任されて、すごいやろ、大したもんじゃろがえ!?


 一年中体操ズボンの短パンで過ごしてたなあ。 

 あ、そうそう、修学旅行はお前らと一緒の奈良、伊勢コース。
 どんな名所旧跡を回ったかより、車中や旅館でみんなとワイワイ騒いで楽しかったことを思えてる。


 卒業と同時に網干のおばあちゃんの家に引っ越すことになっとったんで、式が終わったその足で、飾磨から山電に乗った時は、「もうみんなとは会えへんのかなあ〜。」とちょっと寂しかった。

けど

 小学校は、4回も転校したから慣れとったし、それに4つの学校に友達できたから、高校でもまた誰かにきっと会えるやろし、大人になったら凄い人脈できとるやろなあ、と変に前向きやったことをよく覚えてる。
 お前やったら泣いとるやろな?わーい(嬉しい顔) 


 これが小学6年の頃の思い出や。手(チョキ)

 また、聞きたいことがあったらいつでも教えちゃる。

                          以上

posted by ひげおやじ at 10:46| Comment(2) | TrackBack(0) | My Episode  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月11日

新カテゴリ「My Episode」について

 ひげおやじ、44歳。わーい(嬉しい顔)
 思えば ちょっと遠くへ来たもんだ
 
 今日はちょと真面目です。おもしろくないですよ。爆弾(注)


 昨年11月11日に、この「おやじの背中」というブログをスター卜させて2ケ月が過ぎました。手(チョキ)

 立ち上げに際しては、大きくは次の2つの目的や思いがあったのですが、

@PTAや地域、そして勿論、自分も含めたおやじ達の姿(背中)・活動を正確に伝えたい、記録に何か残したい…的な感覚。

Aサブタイトルの中で触れているとおり、我が家もこれから「(緩やかかどうかは別として)子離れ」の時期で、そろそろ思春期にさしかかろうとする息子とのやりとりを残したい。文字にすることでより深く考えられたり、ひょっとしてブログを覗いてくれた方からも意見やアドバイスが頂けたりしないかなあ…という思い。
 

いずれも、あくまで自己満足の追及で、「自分の為に」これらをペースにした方向性を、これからもいろいろと探って行ければと考えている次第です。


 しかし、そんな中で一つ気付いたのは、自分の生い立ち、歴史というかこれまでのことは案外書けていないことです。
(う〜ん、やっぱり内容が重い。どないしたんや今日、何処へ行くんや…。)

 一部、オフコースやセルフ・カットのネタ等のところで振り返りはしているものの、自分の過去を伝えるのは以外と難しく、気恥ずかしく、また、読み手もあまり面白くないだろうという計算、ウケ狙いに走ってしまう「打算」が先に立ってしまうのかも知れません。


四十路は、まだまだ振り返る時期ではない。

まだまだ振り返ってなんかいられない。


 という一種脅迫観念にも似た微妙な心理が働く年代なのかも知れないし、その感覚は、Myブログを持つ持たないにかかわらず言えることだと思います。

 しかし、しかし、自分にも乳児、幼児、少年、青年期が当然あった訳で、そして思春期、親離れを経験してきた訳で、その時の記憶や体験を抜きにしては、なかなか説得力のある子供への応対ができないと思うし、自分の失敗や後悔したことを、可能な限り思い出して書き留めて、「緩やかなる発展的子離れ」に活かしていきたいとも思うようになりました。

 それには今の段階で自分のこれまで、特に青年期あたりまでのことをできるだけ思い出して、整理しておく必要があるなということで、今後はひげおやじの生い立ち、歴史という、他人様が読んでも何にも面白くない、いわゆる「自分史」的なブログシリーズとしての「MY EPlSODE」という記事カテゴリを設けて、時折思い出しては記録していくことにしました。
 
 タイトルとなる「EPISODE ○○」の○○は、ひげおやじの当時の年齢で整理していくつもりです。 

 定かでない記憶をたどりながらですが、あまり脚色を加えず、合成着色料無添加を目指しつつ、また、ひげおやじ家のプライバシー保護の観点から、記事としては作成して残しつつも、非公開としてお見せしない欠番となる「EPlSODEナンバ一」も出てくることを予めお断りしながら、まだうっすらと思い出せる間に、ブログというものを使って「自分史」づくりのマネごとというか、息子へのメッセ一ジづくりというか、まあ始めてみます。

 他人様には本当に面白くないと思いますので、どうかそっとしておいて下さい。放っておいて下さい。

 以上、新力テゴリ誕生に係るお断りでした。ペコリグッド(上向き矢印)
 


posted by ひげおやじ at 20:36| 兵庫 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | My Episode  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月28日

Episode 43

 本日は仕事納め。
 今年も残すところ、あと3日となりました。時計

 ひげおやじにとって43歳の一年、05年もまた目まぐるしい一年ではありましたが、たくさんの新らしい出会いがあった一年でもありました。

文字で表現するならば

「模索」「自重」「出会い」

「辛抱」「発信」「感謝」


などの言葉が頭に浮かんできます。(ちょっと多いか)


少し振り返ってみると、

 序盤の中心は、やはりPTA活動で、これを如何にべ夕一な状態(ベストとは申しません。)で、次の体勢に引き継ぐかということに、気を使ったつもりではありました。はい。手(パー)
 
 と同時期に、入れ替わるように舞い込んで来たのが、校区子供会、市子連、そして息子の所属するサッカークラブの役割りでした。


 校区子供会については、前年度は力ミさんに任せっきりだったので、一から教えてもらい、当然ながらPTAとはまた違う組織の有様に戸惑いながらも、前任の同級生Y氏のアドパイスや綿密な資料、そしてカミさんを含め、メンバーの皆さんの協力のもと、これまでに定められた行事に加え、新たな公民館事業「あぼしっ子教室」も支えることできたし、とりわけ懸案だった球技大会と将棋・オセロ大会の会場を、賛否はあるものの新たな所へ移し、「初めて」がいっぱいの中で開催できたことは、良かったかなと思っています。(感謝)わーい(嬉しい顔)

 市子連西部ブロックでは、これまた無知で1年目の今年は大した役には立たなかったのですが、他校区の子供会の役員さん、おやじ達と新たに知り合うことができて、これからにつながる財産として大切にしていきたいと孝えています。

 加えて、サッカークラブ、そして仕事では9月の転勤等々、新たな役割りの中で出会いが一杯ありました。手(チョキ)

 
 そして、当ブログ「おやじの背中」の開設。ぴかぴか(新しい)

 でもやっぱり大きいのが、父親教室で今まで以上にたくさんの“おやじ”達と知り合い、ついには人前でダンスまで踊ってしまったということで、私はこれを

『輝かしい ア・ヤ・マ・チ』爆弾

と呼んでいますが、
本当にある意味子供そっちのけで、みんなで一つの目標に向かって時間をかけて作り上げていくという、ここ最近忘れかけていたような行動に参加できて、正面から見ると多少不気味だったかも知れませんが、いい『おやじの背中』を見ていただくことができたかなと思っています。

アカデミー賞受賞のスピーチ調で言うならば、カラオケ

 「家族とスタッフ、そして関わって下さった全てのみなさんに感謝します。もうやだ〜(悲しい顔)」です。ムード
 


 ということで、トータルすれば、いい一年だったということにして、気持ちよく新年を迎えたいと思っております。
 
 一年間、お仕事お疲れさまでした。(自分へ)キスマーク
 

posted by ひげおやじ at 19:40| 兵庫 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | My Episode  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする